■フェイス・オフ
ジョン・ウーでトラボルタとくれば、そりゃもうボンクラ映画馬鹿には聞いただけでグッと来ること請け合いの馬鹿アクション映画。
とは言え、ジョン・ウーは実は映画の内容自体はいつもそんなにはっちゃけてはいないんだけどね。 "普通の"人にも普通にお勧めできる範囲内ではある。 ただ、一部の人間が「黒コート」とか「回転」とか「鳩」とかに無駄に過敏反応するだけであってw

さてそんな訳で、普通にハリウッドスターを使ってるこの映画、全体的に緊迫感やテンポや盛り上げ方やオチの付け方、どれも上手くまとまっていて問題のない良作ではあるのですが、
が、
何よりもこの映画のキモである「主役二人の顔が入れ替わる」というその設定について、どうしても納得がいかない部分がある。
いや、入れ替わることそのものじゃなくて、「ていうかもとよりお前ら役柄逆じゃね?」っていうとこなんだ。

だってさぁ!
なんで「国際的な凶悪テロリスト」が、『ハリウッド・貧相で可哀想げなオヤジ選手権代表選手』選抜間違いなしのニコラス・ケイジで、「正義に燃えるFBI捜査官」が『何の役やっても凶悪ヅラの会・会長』みたいなトラボルタな訳〜?
ニコラス・ケイジ、迫力ないから! ジョン・トラボルタ、絶対裏で不正やってそうだから!(^◇^;)

だからさぁ、せっかくの「2人が入れ替わってそれぞれの役を演じる」っていうギャップ部分の面白みが、みょ〜な事になってる訳。 つーか入れ替わってる時の方が立場がしっくり来るんだって、普通に。

ラボルタ(の顔のニコラス・ケイジ)が家に帰って娘を抱擁しても、「その人はパパじゃないの!中身は違うのよ!騙されちゃ駄目!」って思う以前に「いや、そもそもその人、悪人顔ですから!ニヤリって笑ってますから!『パパ♪』って言われる顔じゃないですから!」ってツッコミが去来するわけですよ、激しく(;´Д`)
”ニコラス・ケイジのヌルい顔”=”正義の味方でマイホームパパ”、そこに”実は中身が凶悪犯トラボルタ”って言うほうが、順当に緊迫感増しません? って思うんですけど〜。

そうすれば、逆に捜査官アーチャーが必死の思いで家に帰って、奥さんと対面するシーンも、”凶悪顔で夫の旧年の仇のトラボルタが家に来た”→”恐慌をきたす妻”→”でも『違うんだ、僕だよ』と(中身の)ニコラス・ケイジが訴える”→”和解”って流れが自然でしょ? 悪人の顔の下で必死に妻に訴えかける情けない系俳優のニコラス・ケイジ、っていう味が存分に生かされると思うんだけど。 つか、外身ニコラス・ケイジの顔で泣きそうになりながら訴えかけられても、そのままで十分に哀れげだから、「中身とは別人」っていう設定のギャップがやっぱり行かされてないと思うんですがどうかw
まぁ、トラボルタがニコラス・ケイジ風の情けな演技ができるのか、ニコラス・ケイジがトラボルタの凶悪風味表情を出せるのか、って言う問題点は残るわけですが。


なんか相当言いたい放題言ってますが、まぁ逆に言えばそういった個人的ミスキャストの違和感部分がなければ、「ふーん、普通のハリウッド映画ね。鳩は飛んでるけど。」くらいでスルーされちゃう映画ではあるんですけどねw


あ、あと、「顔の皮をはいで入れ替わる」なんていう設定があまりにアレゲで失笑すらしづらいってのはまぁこの際置いとくとしても、顔の皮ない状態でタバコ吸ったら、きっと煙がめっちゃ染みると思う〜〜〜(T□T)
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