・・・ Across the Light ・・・
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試合が終わった後のロッカールームには、さっきまであたりを埋めていた歓声や、ほこりと汗の臭いや、強い日差しの名残りが、かすかな木霊のようにいつまでも残っているような気がする。
それらが次第に消え去っていくゆっくりとした時間が、火照った体を冷やしていく感覚が気持ち良い。
長くスポーツを続けている石丸にとっては、馴染みの深い、そして、一番好きな時間だった。
どんなスポーツでもこの時間は同じだ。

ただ、今の自分の中には、いつもの陸上部の大会の後とは違う、期待と不安が混じりあった密やかな想いがたゆたっているのを、石丸は自覚していた。
そんな自分に対して、思わず苦笑がこぼれ、誰が見ているわけでもないのに、目をそらして窓の外を見る。

その時。

前触れもなくバタンと扉が開き、反射的にそちらに顔を向ける。
そこに入ってきた人物と目が合った時、あまりに自分の期待の通りのその光景に、また苦笑が広がりそうになるのをこらえ、普段の“愛想の良い自分”の笑顔の範疇に収まるように、妙に気を使いながら、「よう」と右手を上げた。

「お?まだ居たのか。お前ひとりか?」
何が入っているのか、いつも持っている大きなスポーツバッグを肩にかけたヒル魔が、扉を閉めながら言う。
「ああ、さっき痛めた足をちょっと休めてたんだ。」
石丸は、3つ並べたパイプ椅子に、くじいた足を伸ばして座っていた。
「・・そうか。」
一瞬、普段のヒル魔なら見せないような神妙な表情をしたのを、石丸は見逃さない。
(こいつはそういうヤツだ。悪ぶってるくせに、すぐかわいいトコを見せる。)
心の中でだけ、また微笑する。
すぐにいつもの顔に戻ったヒル魔は、バッグをドサリと机に置き、「はーあ」などと言いながら肩を回したりしている。
「そういうお前は、何で一人でこんなに遅くなったんだ?」と石丸が聞く。
ヒル魔はバッグを開き、着替えを取り出しながら答えた。
「あー、まぁ色々片付けとかな。あちこち”仕掛け”したしな」
「ぷっ、ははっ」
「笑うとこじゃねーよ。」
「いやいや。うん。そうだな。」
そういわれても、クックックと笑い続ける。
こんな時の自分の心理状態は、よくわからなかった。 試合の時のはしゃいだ様子のヒル魔を思い出して可笑しかったのか、それとも、あからさまな言い訳をしつつも、実は自分が居ることを知ってこいつは最後まで残っていたのではないか、という嬉しさか。
いや、そんな子供じみた妄想を抱いている自分を嘲笑っているのか。
ヒル魔にもその複雑な感情は伝わっているのかもしれない。 肩を震わせる石丸を横に、怒りもせずに着替えを続けていた。

脱いだユニフォームをバッグに押し込んだヒル魔は、私服のシャツを頭からかぶりながら、
「そういや、足、シップは換えたのか?」と聞いた。
「いや、自分では持って来てないんだ。救護室ももう閉まっちゃったみたいだし。」
「じゃあ換えてやるよ。」
そう言ってバッグの中から小型の救急箱を取り出し、石丸の隣に座った。
相変わらずマメな男だ、と思うとまた少し可笑しくなる。

埃を吸った包帯が解かれていき、ヒル魔の細く、繊細な指が、石丸の足に冷やりと触れる。
その感触は、石丸の好きな、試合の後の気持ち良さに似ていた。

しばらくの沈黙。

部屋に差し込む光は、次第に夕焼けの赤みを帯びてきている。

「・・すまなかったな。うちの糞チビのせいでよ。」
ヒル魔の沈んだ声など、めったに聞けるものではない。
しかし、今の石丸にはそれを楽しむ心情は浮かんでこなかった。
「うん。」
肯定とも否定ともつかない、曖昧な返事をする。

(うちの、か。)

ヒル魔は温くなったシップをはがして、ごみ箱に投げた。
石丸の顔は見ない。
しかし、一度破った沈黙は重みを増す。 彼はさらに言葉を続けた。
「ったく、いつも嫌がらずに試合に出てくれるのはお前だけだってのになぁ。」
「それは・・・」
今、初めて出た話題ではない。

ヒル魔と出会い、アメフトの試合に出るようになってから、自分の気持ちは隠さずに告げてきた。
だが、今となっては・・・ その意味合いは違ってしまった。
今日のあの瞬間から。
しかし、それでも自分の答えはひとつしかない。

「言ってるだろう。お前が居るからだよ。」

「チッ!だったらさっさとアメフト部に入りやがれ!」
ヒル魔は新しいシップを貼った足首を軽く叩きながら、怒ったように言った。
「てっ! いやそれは無理だって、前から・・」
ヒル魔が石丸をにらみつけ、二人の目が合う。
「お前が世話んなった先輩ってのはもう卒業したんだろう? じゃあもう陸上部にいなくったって良いんじゃねーか!」
それも何度も繰り返されてきた問答だ。
しかし、今またそれを告げるヒル魔が、少し泣きそうな顔に見えるのは、ただの光の加減だろうか。
自分でも何故怒っているのかわからない、といった戸惑いにも見える。 もしくは、遅かったことを悔やむようにも。
ヒル魔はすぐに顔をそむけて、清潔な包帯を巻き始めた。
自分も同じ表情をしているのかもしれない、と石丸は思う。
「先輩がいなくなったからハイさよなら、なんて、そんな訳にはいかないって。」
わかっているだろう、という気持ちをこめる。
わかっているはずだ、こいつには、そんなことは。
俺達が、お互いどうにもならない場所にいたってことを。
そして・・・・・

数時間前のフィールドの様子が思い浮かぶ。
砂煙を巻き上げ、鮮烈なスピードで駆け抜けていった、小柄な体。

「それに、お前はもう・・」

届かない。
手を伸ばすことさえ叶わない領域に、“彼”が居るということは、一瞬でわかった。

「見つけたんだろう?」

ヒル魔は手を止めない。顔も上げない。

「お前の、必要とするものを。」

返事をしないだろう事はわかっていた。
しかし、石丸は感じた。 「ああ、そうだ。」という言葉を。

ヒル魔が、何よりも欲していたもの。
自らの望みをかなえてくれる“仲間”。
自分がいられなかった場所。
その場所は、遥か高みで輝きを放ち、その逆光で、“彼”の顔は見えない。
眩しく、そして悲しい光。


包帯を巻き終わったヒル魔は、立ち上がって救急箱をしまい、石丸の前に立つ。
拳を握り、意を決したような表情をしたかと思うと、見上げる石丸の両肩をつかんで、奪うように唇を重ねた。
すぐに離れる。 戸惑いを差し挟む余地もない一瞬。
ヒル魔はまた、泣きそうな、怒ったような顔になっていた。
石丸は、動けないまま、見つめ続ける。
その頬が少し紅潮したように思った瞬間、ヒル魔は身を翻し、机の上のバッグをつかんで、早足で扉に向かった。
そして扉の前で振り返り、猛然と人差し指を振りながら言う。
「それにしたってうちはまだメンバー全然足りねーんだ!お前もまだ逃がさねーからな!わかったか!」
バタン!と壊れそうな程の勢いで扉を閉めて、ヒル魔は出て行った。

閉じた扉に向かって、石丸は「ああ」と微笑む。

傾いた太陽が、眩しく、窓から差し込んでいた。



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