・・・ The Beginning of the Fiction ・・・
「夢の終り」より
誰の目にも明らかな、劇的な変化なら、人は対処できる。 その術を探そうと思えるからだ。
しかし数値化できない人間というアナログにおいて、変化は気づかないうちにやってくる。埃が積もるように、少しずつ、少しずつ、、地表プレートがたわむように、少しずつ。
わずかな軋みを聞き逃せば、気づいた時には手が付けられなくなっている。

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新生活というシンジにとっての重大事も、些細な出来事として包含して、日常は続いていく。
学校は良くも悪くも巨大な閉鎖空間であり、子供たちの柔軟性は貪欲に何もかもを飲み込んでしまうのだ。
初め、シンジ自身その違和感に気づかなかった。 あまりに微妙であったため、慣れない学校生活の慌ただしさに紛れてしまっていたからだ。
男子生徒の中でもあまり偏見を持っていない子供たちは、少しずつシンジに声を掛け、他の生徒と同じように休み時間に喋ったり、弁当を食べたりするようになった。 それには、初めにシンジの周りにやってきた女生徒達の気を引きたいという淡い欲求もあったのかもしれないが。
肩の力の抜けてきたシンジも、昨日見たテレビの話や前の授業の教師の陰口に何気なく参加する事が出来てきた。
1人の男子が、自分の姉が家ではひどくガサツだという話をしている
「もう、裏表っつーの? すんごいんだよ。 外でオトコと居る時とかチョ〜〜ブリっ子するくせにさぁ、俺になんか言う時と声のトーンがこ〜んな違うんだぜ」
と、おどけて両手を左右に目いっぱい広げる。
周りの友人達があははは、と笑い声を上げた。
ひとしきり笑った後で、シンジがその少年に向かって言った。
「それさぁ、実はアスカもそうなんだよ。」
「アスカって?」
はっ、と一瞬だけ、シンジの表情が冷める。 それはすぐに取り繕って笑顔に戻れるくらいの一瞬だったが。
「あ、僕の友達のこと。 ごめんごめん。」
それを聞いた少年は、椅子にそっくり返るようにして、ワザとらしく拗ねたような声で言った。
「なぁんだ、碇も学校以外に女の友達なんて居るんじゃん。 お前って何だかんだで結構モテルんだよな〜 チェッ」
と言いながらシンジの肩を拳で軽く小突く。 友人達は、自分がモテないからって拗ねるなよ。なぁその子カワイイの?などと口々に言いながらまた腹を抱えるのだった。
その拳をよけながらシンジもそんな事ないって、と笑っていたが、脳の奥では妙に痺れたような冷めた感覚とともにこんな言葉が呟かれていた。
(そうだ。ここにはアスカはいないんだ。 この世界には。 僕しか知らないアスカ、、レイ、、みんな、、)

一日の授業が終り、友人と別れて一人家路に就くと、とたんにまたその言葉が繰り返し頭をよぎる。
(誰も知らない。 存在してない)
(それはやっぱり、現実じゃないっていう事だ。 僕の記憶にはあるのに)
アスファルトの上の、歩道を示す白線を見つめながら歩き続けていた足が、ふと止まる。
(じゃあ、、僕は?)
(あの夢の中で、皆が必要としてくれていた僕は? 本当にこの世界に存在しているの?)
(僕は、本当にここにいても、、、、)
シンジの脳は、それに続く言葉を思考する事を、無意識に拒否していた。 スニーカーに少しついた汚れや目の端に映る道端の雑草の事に意識が散らばって、とりとめもない考えばかりが次々に浮かんでくる。
斜めに彼を照らす巨大な夕日にはもう夏の厳しさはなく、日暮らしの鳴き声が否応にも初秋のうら寂しさを醸し出していた。
その中をシンジはまた家に向かって歩き出した。


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シンジが退院して2週間になったある日の夜。 食事はもう終り、皿の片づけられた食卓でコーヒーを飲んでいるゲンドウを相手に、シンジがまた夢の話をしていた。
次々と思い出される膨大な、かつ通常の夢ではありえないほど詳細な記憶を言葉に換える作業は、小説やシナリオでも書くかのような面白さがあるようだ。 加えて、昼間学校ではその話が一切できないという抑圧の反動もあるのかもしれない。
しかし、初めはそれを実験の成功として喜ばしく聞いていたユイとゲンドウに、そこはかとない不安が訪れていた。

11時。シンジが自分の部屋に戻り、しばらく黙ってたユイが、ゲンドウにこう切り出した。
「ねぇ、あなた。 ちょっと、、おかしいと思わない?」
「おかしいって、何がだ。」
ゲンドウも、ユイがこの話題を持ち出す事は予期していたが、自分の中の不安がまだハッキリ言葉に出来るほどの形を取っていないので、あえてまずユイの意見を聞いてみる事にした。
「シンジ、、夢の話しかしてないのよ、この2週間。」
やはり自分の思い過ごしではなかったか。 ゲンドウは黙ったまま続きを促した。
「学校の先生からの連絡では、見違えるほどに明るくなって、周りの子達とも普通に話してるし、何人か友人も出来たみたいだって事なんだけど、それだったら今日学校で何があった、とかそういう話が出てきてもいいはずだわ。」
「ああ、それは私も思っていた。」
「何だか、、、これはなんとなく感じただけのことなんだけど、少し無理矢理夢の話をしてるような、まだ何かを抑圧してるような、そんな気がするのよね、、」
ユイは背中を丸め、コーヒーが半分になったマグカップを両手で包んだまま、ぼんやりと見つめている。
無言の返答によってゲンドウが自分と同じ事を感じていた事で危惧は抱いたものの、こうはっきりとしない「なんとなく」の感覚では何の対策も打ち出せない事を確認する事しか出来ない。
何かが。 私たちのやっている事は何かが間違っている。
そんな無形の焦燥感だけが、悪寒のようにじわじわと背後から忍び寄ってくる。
でもそれは何なのだ。 表面上は見違えるほど明るくなったシンジの様子からは、その裏に潜む暗い病巣は読み取れない。
様子を見るしかない。 結局、病など何かの問題が顕現してから対処していくしかないのだ。
(次にその「何か」が起こったら、もう遅いかもしれないっていうのに、、)
冷めてゆくコーヒーを、ユイはもう飲む気が起こらなかった。

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午後のグラウンドの土埃の中、生徒達の声が校舎に反響している。 シンジ達のクラスはこの時間、体育の授業だ。
今日はマラソン、という教師の一言に、40人の生徒が口々にぶーぶーと不平を言いながら準備体操をしている所だった。 二人一組で、さもいやそうに一通りの柔軟運動や屈伸運動をこなした生徒達は、トラックのスタート地点にダラダラと集まる。
「トラック20周。早いものは前の方に並べ。手を抜くんじゃないぞ。だらけたやつは何週でも追加する。」
首からホイッスルを下げたいかにも「らしい」体育教師は、有無を言わせぬぶっきらぼうな口調で生徒達をスタートラインに追い立てた。文句を言いつつも、運動に自信のある男子生徒や陸上部の者は先頭に立ち、アキレス腱を伸ばしながら真剣な目つきになってきている。
シンジは戸惑ううちに、流されるように集団の中ほどに位置することとなった。
はっきり言って、自信がない。
陸上は特に苦手だ。足の早いものがヒーローになれる小学校時代、時に女生徒にも抜かれたシンジにとって、走る事は大きなトラウマとなっていた。 まさか今更足が遅いからと言って馬鹿にされる訳でもないだろうが、、
たかが授業だというのに、シンジの心臓は体育祭でリレーのアンカーを任されたかのように、どくどくと高鳴っていた。
「よ〜し、はじめ!」
号令の後、ホイッスルが力強く吹き鳴らされた。
ザクザクと40人分の足音がいっせいに動き始め、乾いた土が一層舞い上がる。女生徒達は手で口元や目を覆い、やだ〜、と顔を顰めながら走る。シンジも埃が入らないように目を細めつつ集団と一緒に足を動かした。
ざっざっ ざっざっと鳴る足音がいやに耳に付く。その音が緊張とあいまって、いつしかシンジの脳は催眠術にかかったかのように茫とし、ただ手足だけを無意識に動かし続けていた。

5周、10周と距離を重ねるにつれて、体力のある者とそうでない者の間に開きが出てきた。 集団の全体が長く伸びている。ほとんどの女生徒はもう歩いているのか走っているのかわからないスピードだ。 顎を上げて、いかにも辛そうな顔で悲壮さをアピールしている。 生徒達が目の前を通り過ぎるたびに真面目に走れっ!などと教師の檄が飛ぶが、この状態になった中学生女子を再びやる気にさせる事など誰にも出来ないという事を知っている為、諦め半分ではある。

シンジは何も考えられない状態で、ひたすら手足を動かしていた。 秋とはいえ体を動かせば、汗が額から流れて落ちてくる。そこに土埃がついてとても不快だが、拭いても拭いてもきりがない。 荒くつく息が通るたびに喉がひりひりと痛む。 顔が上気し、血管が破裂するのではないかと思うほどに、脳と心臓がどくどくと脈打つ。 太股の筋肉には乳酸が溜まり、自分の体ではないかのように力が入らない。 走っているつもりなのだが、足は引き摺る寸前まで下がっていた。
諦めた生徒達と同じように歩いてしまえばいいのかもしれない。 しかし何故かそのタイミングがつかめない、というよりそうする勇気が出ないのかも知れなかった。 なす術もなく、走り続ける。 シンジの位置は、集団の中でだんだんと下がりつつあった。

「あと5周!真面目にやらんやつは終らせないぞ!」
教師がひときわ大きな声でそう告げた。それを聞いて、仕方がない、という顔で、歩いて体力を温存していた生徒達もまた走り始める。シンジの周りでダラダラしていた者達もいっせいにスピードを上げた。始めから先頭にいた生徒達は、一体同じ人間でどうしてこうも体力が違うのだろうと思わせるほどのスタミナを見せ、ラストスパートをかけ始める。全体がペースアップして動き始めたが、シンジはどうしてもこれ以上足を速く動かせない。海の波が引くように、どんどん取り残されていく。
(待って、、)
そう思っても声にはならない。喉はもう、カラカラに乾いて紙やすりをかけられているかのように痛い。汗と埃で目もろくに開かない。
集団から離れ始めたシンジの横を先頭の生徒が追い越していった。2人、3人と風を切って通り抜けてゆく。シンジには、泣きそうな顔で恨めし気にその背中を見送るしかできなかった。集団は更に延び、周回の違う者がバラバラに入り交じる状態になっていった。
やがて、一番早い生徒達がゴールしはじめた。トラックの内側に入るとばったりと仰向けになり、激しい息を付きながら死ぬ〜、などと言ってはいるが笑顔になる余裕があるのが凄い。走っている誰もが横目でそれを見て、後もうちょっと、と自分に言い聞かせる顔をしている。
次々と、ゴールする者が続く。その中にはもしかしたら、あと1周足りていないのに、ついでになだれ込んでしまう者もいるかもしれない。しかし教師もいちいち全員の分を数えてはいない。
シンジとその前の走者との間は100m以上開いていた。
更に開く。 その生徒がコーナーを曲がり、背中が見えなくなった。 シンジがそのコーナーを曲がった時にはもう彼はゴールしていた。あとはシンジ一人である。
もう少し、もう少し、、それだけがシンジの頭の中をぐるぐる回る。
生徒達は全員地面に座り、シンジを見ている。
悔しい、恥ずかしい、苦しい、、
(もうイヤだ。なんでこんな事しなきゃいけないんだ。僕は、こんな事しなくったって、僕が運動なんかできなくったって、エヴァに乗れば、、)
意識はもうろうとしていた。
ざっざっと頼りなげな一人分の足音。
あとゴールまで50mだ。
その時、「もうちょっとだぞ〜」と、一人の生徒が立ち上がって手を振った。
シンジは顔を上げた。
並んで座っていた3人の女生徒がせーの、と顔を見合わせてから「がんばれ〜」と声援を送る。
(うん。がんばるよ。もう少しだ)
足をそれ以上速く動かす事はできないが、シンジは精いっぱい、振り絞るように走った。ゴールに引かれた白線が近づいてくる。
何人かは立ち上がって、ゴールの向こうで手を振ったり拳を振り上げたりしている。
「よっし。もう少しもう少し!」
「がんばれ、がんばれ!」
ついに、シンジの右足がゴールに入った。
そのままばったりと膝をつき、両手をつき、前のめりになるのをかろうじて体をひねって仰向けに倒れこんだ。呼吸はまだ楽にならない。喉は痛いままだ。
しかし、はぁはぁ言いながらもシンジは笑顔になっていった。なんとなく湧き上がる安堵感と満足感。普段から仲の良い数人が彼を取り囲み、笑顔を返す。
「よくがんばったじゃん」
「セーシュン映画のラストみたいだったぜ〜」
「なんかいいモン見せられたって言うか〜 カンドーもんだよね」
シンジは上半身を起こした。
「碇は病み上がりだってのにさ、少しは気ぃ使えよなぁ、アイツ」、と一人が背中ごしに教師に向かって渋面を作る。そうだよな、と他の生徒も笑いながら相づちを打った。
「だいたい、碇にはこんなの向いてないよな〜 人には向き、不向きがあるってぇの。」
「そうそう。碇、体力なさすぎ」
「うん。ホントに」
シンジも笑って答える。
「お前、ケンカとかも全然したことないだろ?」
「ケンカはないけど、殴られた事くらいは、、」
その瞬間、落雷を受けたようにシンジの時間だけが固まった。
(ない。ないんだ。殴られた事はない。)
アドレナリンが急激に分泌され、頭がガンガンと鳴った。
(トウジはここにはいない。僕は誰にも殴られてない。)
ふらつきながら立ち上がる。
それにつれて、視界が狭まり、目の前で笑い合う友人達の顔が逆光を受けたように真っ黒になった。
顔が見えない。解らない。これは、、誰?
(ここはどこだ? 僕は、どこにいるんだ?)
教師が集合の号令をかけたが、シンジの耳に入っていない。 周りから誰もいなくなった事にも気づかなかった。 ただ、足元の地面が斜めになってゆくような目眩だけ。
(ここは、僕の居場所じゃない、、)


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翌日から、シンジはまた、誰とも口をきかなくなった。
教室でも一人で座っている。
机の模様や傷を見つめてうつむくシンジの心の底には、ヘドロのような黒く重い澱が溜まってゆく。少しずつ、その目を曇らせ、生気を失わせる。

休み時間の喧騒の中で、時折、誰かに呼ばれたような気がする事がある。 聞き間違いかもしれないが、騒がしい中でも自分の名前はよく聞こえるというから、どこかで誰かが彼の事を話しているのかもしれない。 しかし、そういう時でもシンジはけしてそちらを振り返りはしない。 振り返ってみても、誰も自分の方など見てはいないし、呼びかけてもいない。その虚しさを二度と味わいたくないから、振り向かない。 彼を友達だと言ってくれた人々の顔は、絶対そこにはないのだから。
そして、声をかけても返事のない相手にそれ以上気を使うほど、中学生達は寛大でも暇でもなかった。 教師はシンジが教室に座っていればそれで気が済んでしまうようだ。

彼のこの世界での存在意義は、完全に失われた。

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学校へ行きたくない。
朝、ベッドから顔も出そうとしないシンジのその言葉を聞いた時、ユイの胸中には突風のような衝撃と、それによって全身の体温が奪われたような悪寒が去来した。
しまった。油断していた。
ここのところ、確かにシンジが夢の話をする事はなくなっていたが、夕飯の時にはテレビを見ながら、ニュースやドラマについて何気ない会話をするような、普通の家族団欒が出来ていた。出来ていると思っていた。だから安心してしまっていたのだ。
その安心につれて、ユイとゲンドウの二人とも、また仕事場からの帰りが遅くなってき出した矢先だった。
「具合が悪いの? じゃあ今日はお休みしなさい。」
出来るだけ平静を装ってそう言い、シンジの部屋のふすまを閉めたユイは、そのままの場所で立ち尽くした。
(学校での話をしなかった時点でおかしいと思ったのだから、何らかの手を打つべきだったのに、、どうして油断したんだろう。学校からも特に何も連絡はなかったし、、いえ、教師なんて当てにならないわ。)
沈鬱な考えにとらわれたまま、ユイは早足で自室に戻り、上着の袖を通しながら出勤用のカバンをつかむ。 すぐに研究所に行って、先に出勤しているゲンドウや他の研究員達と話し合わなければ。
(杞憂であればいいんだけど。 そうよ。ただ、本当に体の具合が悪いだけかもしれない。)
そう思っても、足は自然と速まる。 玄関を出、地下の駐車場についた時はもう駆け出しかねない勢いだった。
安全運転を遵守する気にはとてもなれなかった。嫌な予感が次々とよぎる。
いや、それは予感ではなく記憶だ。 シンジも、ゲンドウも、そしてユイも、三人ともが痛みを抱え、傷ついていた長い日々。 またあの生活に戻ってしまうのか。 誰にとっても望ましくない辛いだけの日々だったはずなのに、、なぜ。
(それとも、、)
考えたくない事だが
(シンジはそれを望んでいたのだろうか? 殻に閉じこもり、他人と接触する恐怖のない、自分だけの世界を、、)
ユイは、脊椎をゾクっと走る、今までと違う悪感を感じて身震いした。

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ゲンドウはしばらく無言だった。
彼だけでなく、実験室にいた数人の研究員全員が、作業の手を止めてユイを見ている。
確かに、ただ具合が悪いだけなのかもしれないが、そう言って様子を見ていたら取り返しのつかない事になるかもしれない。
どうするべきか。
「もう一度実験を、、」
研究員の一人がおずおずとそう言った。
しかしそれが解決になるだろうか? 同じ事の繰り返しではないのか?
結局、夢は現実の代わりにはなりませんでした。そう結論づけて、実験は失敗として終らせてしまうべきなのではないか?
(シンジをあのままにして? じゃあどうすれば、、)
ユイの頭の中で、考えが堂々巡りする。
研究員達はさわさわと囁きあっている。
夢の影響力を現実に即すように矯正するセラピーを、、
やはり消化器系のアンバランスが、、
ホルモン分泌が、、
夢の精度を、、
成長期の脳の、、
彼らにとっては、あくまで研究が成功するかどうかの瀬戸際であり、今までの実験の延長で解決する方向で考えるのは当たり前の事だ。
(いえ。今度こそ自分達で、なんとかしなきゃ。 機械や実験に頼ってたらいつまでもあの子を救う事は出来ないんだわ。)
決意したように顔を上げたユイの視線を受けて、ゲンドウが頷いた。
「緊急に会議を招集する。」

しかし、その後の会議でも、研究員達の議論は悠長な堂々巡りを繰り返すだけだった。ひとつにはやはり、被験者がたった一日学校を休んだだけという事実に、ユイやゲンドウほど危機感を感じていない事もあっただろう。 まぁ、もう少し様子を見ましょう。 そんな結論しか出なかった。
仕方ない事ではあると思う。 ユイ達が感じている「不吉な予感」というものは、けしてこういった科学的検証の場に持ち出せるものではないのだから。

夜、9時頃に二人で帰宅した。 遅くなった時の常で、ユイはスーパーでありあわせのものを買って簡単な夕食を作った。
「ご飯が出来たわよ。」
シンジの部屋の襖をそっと開け、努めて優しく声をかける。
しかし
「・・・・いらない」
返ってきたのはあまりにそっけない、そんな答えだった。 全てに絶望したかのような、、
ユイは涙が滲んでくるのをこらえて、襖を閉めた。 振り向くと、見守るようにゲンドウが立っていた。 そっとユイの肩に手を置いて、ダイニングへ連れて行く。

二人で、食器の伏せられた食卓に無言で座っていた。 一つ、二つ、ユイの頬を涙が伝う。
しばらくして、ユイは立ち上がってティッシュを取り、その涙をぬぐった。
それからシンジの分の食器を盆に乗せ、料理を盛りつけ始めた。
箸を添えてシンジの部屋へ持って行く。
戻ってきたユイは、ゲンドウと自分の分の茶碗にもご飯を盛る為にキッチンへ持って行った。
行きながら
「さめちゃうから、食べましょう」
と、力ない微笑みをゲンドウに向ける。



そのまま、時間だけが過ぎていった。

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もういやだ。
ここじゃないんだ。
みんなのところに行きたい。
僕を必要としてくれるみんなの。
会いたい。
会って僕の名を呼んで欲しい。
友達だって言って欲しい。
寂しい。
寂しい。
アスカ、レイ、トウジ、ケンスケ、委員長、ミサトさん、リツコさん、マヤさん、、、

薄暗い部屋で、枕に顔を埋めて一人一人の顔を思い浮かべる。

「バカシンジっ!」
「碇君、、」
「よう!シンジ!」

通り過ぎてゆく懐かしい友は、みな親しみを込めて彼の名を呼ぶ。
夢や幻じゃない。こんなにはっきり覚えている。
僕にとってはこれが現実なんだ。

、とその時、今まで思い出せなかった、シンジがもっとも求めていた声が、彼を優しく包み込むように響いた。


「シンジ君。」


シンジはベッドの上に跳ね起きた。
カーテンを開くのももどかしく、窓を勢いよく開ける。 そこに誰かがいる訳ではないのだが、そんな事を考えるいとまはなかった。
いや、彼には見えた。 そこにいたのだ。
白い肌、赤い瞳。 色素の薄い髪を風になびかせて、優しく微笑む
かつて、彼が最も愛した唯一人の、、

「カヲル君、、、」

「シンジ君。、、好きだよ。」

シンジの頬にとめどなく涙が伝う。
カヲル君に会いたい。会いたい。会いたい!

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シンジの部屋から物音が聞こえた気がして、ユイとゲンドウは顔を見合わせた。 シンジが起きだしてくる気になったのだろうか?
ゲンドウが先に立ってシンジの部屋を開ける。
「シンジ、入るぞ。」
部屋の中央で、白っぽい何かが激しくはためいていた。
ゲンドウの眼が薄暗がりになれてくると、それが開け放たれた窓から吹き込む風に煽られるカーテンである事が解った。
その示す意味に気づくまで、数瞬の間があった。 それを脳が消化する前に、ベッドに視線が映る。 そこで見たものは、ある意味当たり前の事実を確認するに過ぎなかった。
シンジはそこにはいなかった。
ゲンドウが窓に駆け寄る。 シンジの部屋の窓の前はベランダになっている。 まずそこの隅を見たが、誰もいない。 ベランダの端から少し身を伸ばせば、非常階段に手が届く。 無理をすればそちらに飛び移って下に降りる事が出来るのだ。
そう思って階段を順に目で追い、そのまま下の道路に視線を走らせたが、そこには街灯に照らされて丸く切り取られたアスファルトが、ぼやけながら均等に並んでいるだけだった。
人の気配はない。
ゲンドウの一連の動きからそれを察したユイは、すぐに部屋を出て、車の鍵を手に取った。
「探しましょう。」
家の鍵もかけずに駆け出し、エレベーターを待ちきれずに、二人で階段を駆け下りる。
同時に車に乗った。 鍵を持っているので運転席はユイだ。
慌てたために、イグニッションにうまく鍵を差し込めずに癇癪を起こしそうになる。
「落ち着くんだ。」
その肩に手を置いて、ゲンドウが言った。 とっさに縋るような目でユイがゲンドウを見る。
「そんな状態で運転して、事故でも起こしたら元も子もない。 まず、どこを探すか考えよう。」
「そう、、そうね。 どこへ行くかしら、、 あの子の知ってるところはそう多くないはずよ。 学校とか、子供の頃遊んだ公園とか、、」
シンジに友人が少ない事がこんな時に幸いするとは。 その想いは口に出さなかった。
「そうだな。 学校だったら、中学より小学校の方が可能性があるかもしれない。 あの頃はまだ学校が楽しかったろう。」
「とにかく、行ってみましょう。」
一息ついてから、決意したようにエンジンをかけて、車を発進させた。

どこか途中で見かけるかもしれない、と思って、ゲンドウは常に暗い道路に目を凝らして、シンジの姿を探した。
街はそう広くはない。
小学校、中学校、行ける範囲の全ての公園、交番にも事情を説明し、また家の近くに戻って周囲を回ったりもした。
しかし見つからない。
気ばかりが焦って、ハンドルを握る手が小刻みに震えて止まらない。
ふと、ユイが思いついた。
「研究所かしら、、」
ここからは歩きではだいぶ距離があるが、シンジがいなくなってからの時間を考えると、たどり着けなくはない。
思い立ったままに車を走らせた。
「しかし、なぜあそこに?」
ゲンドウが誰に言うともなく呟いた。
もしシンジが、あの夢の世界に戻りたいと思っていたら、、
それはユイにとっては真新しい疑念ではなかった。しかし同時に、絶対考えたくなかった可能性でもある。
だから口には出さなかった。

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シンジはもう、研究所に到着していた。
入口の門にはもちろん警備員が常駐しているが、シンジの体なら、その目を躱して柵の隙間から進入する事ができる。
柵の内側の低い茂みを抜け、灯かりの下に入らないようにして駐車場を駆け抜ける。
建物の入口も、警備員用の通用口が裏にある事を知っていた。 詰め所の窓口の下を、這うようにして抜ける。
裸足の足にリノリウムの床がひんやりと張り付く。
長い廊下は、非常口を示す緑のランプだけで照らされて、色彩を失った深い海の底のように静まり返っている。その暗さですべての音を飲み込むかのようだ。
ここまで走り通しだったシンジに、自分の荒い息遣いが驚くほど大きく耳障りに聞こえた。
自分が「目覚めた」研究室を目指す。 5階だ。
(還るんだ、、あそこへ、、)
それは強烈な母胎回帰願望にのように彼を駆り立てた。。
何度か角を曲がり、階段を駆け登る。 自分がこんなにはっきりと所内の道順を覚えていた事に驚くだけの感覚も麻痺していた。
いくつも並ぶ同じ色の扉を抜けていく。
目指す研究室が見えた。

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ユイたちが研究所に到着したのはそれからほんの10分後である。 やはり山道は車の方が断然に早い。
門の前に車を停め、近寄ってきた警備員に身分証明書を提示する。 しかし顔なじみの彼には、それをいちいち確かめる必要はなかった
「碇先生、お忘れ物ですか? 今日はもうみなさんお帰りになったようですよ。」
「シンジが、、息子がいなくなったの。 ここに入り込んでるかもしれないの。」
助手席にゲンドウもいる事をみとめた警備員は、ユイの口調からもこれがただ事ではない事を察したようだ。 短く頷いて門を開けた。
車をいつもの駐車スペースに停め、通用口へ駆け出す。
ここにシンジがいるかどうかは解らない。 あくまで可能性の一つでしかなかったはずだが、ユイの心の中では忌まわしき確信に変わっていた。
通用口の警備員に短く事情を話すと、懐中電灯を手に一緒についてきてくれた。 駆け足のためにぶれる光輪で照らされた廊下に靴音が響く。

階段を上り、研究室のある廊下に出た時、どんっ、と鈍い音がかすかにユイの耳に届いた。 進んでゆくと、その音は確かに、断続的に聞こえてくる。
警備員が目指す研究室の扉のあたりに懐中電灯を向けた。
そこにシンジの白い影が浮かび上がった。 その扉を両手で叩いている。
「シンジっ!」
ユイが真っ先に駆け寄り、シンジの両肩を後ろからつかんで揺さぶった。
「シンジ!何をしているの? やめなさい!やめて!」
しかしシンジにはユイは見えていない。 全身を汗びっしょりにして、髪を振り乱し、必死の形相で扉を叩いたり、ノブをガチャガチャと回そうとする。
「開けて! ここを開けてよ! 」
「シンジ、、!」
たまりかねたゲンドウが、シンジの腕をつかんで強引に振り向かせる。
「だめだ、シンジ。 家に帰るんだ!」
ゲンドウにとって、シンジをこれほど強く叱るのは初めての事であった。
しかし、
「いやだっ!!」
シンジはその腕を振り払い、ゲンドウを睨み付けた。 シンジが親に逆らうのもまた初めてだった。 思わぬ彼の反応に、ゲンドウもつい愕然としてしまった。
「いやだっ! 僕はみんなのところに帰るんだ! 僕が居ていい場所に! みんなと一緒にいるんだ! ずっとずっと一緒にいるんだ!」
握った拳を振り回し、狂ったようにまくしたてる。
「エヴァに乗って、そうすればみんなが誉めてくれるんだ! 苦しい思いなんてしなくて済む! あそこへ戻るんだ!」
次第に涙声になってきた。 そして、扉に向かってすがりつく。
「いやだ。 ここは嫌なんだ。 みんなが待ってるんだ。 会わせて、、 お願い、、、助けて、、カヲル君、、、」
床に崩れ落ちた、その姿勢のままで鳴咽をあげる。
しんとした廊下に響くその声が、まるで悪い夢でも見ているかのようで、ユイとゲンドウはただ、立ち尽くしていた。

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半年が過ぎた。 季節は春。
白一色の病室も、窓の外の花々を映して、淡やかに色づいている。
しかし、この部屋の住人であるシンジの瞳は、その美しい風景をとらえる事はない。
ベッドの上の彼の双眸は開かれてはいるが、虚ろな光を宿すばかりで現実の像を結んでいない事が、彼の身体に繋がれた機器があらわしている。
その傍らには、白衣を着たユイとゲンドウが、この半年シンジの主治医を勤めた医師と共に立っている。 横たわるシンジを見下ろすその目も、また虚ろだ。

主治医が2人を振り返って沈鬱に告げる。
「残念ですが、、やはり回復は望めないとしか言いようがありません。」
半年間、あらゆる手を尽してシンジの心を引き戻そうとしてきた。 しかし、徹底的な崩壊に追いやられた彼の神経は、もう誰の声も聞く事はなかった。
心の中の、、夢の中の「友人」達の声以外は。
ユイ達に残された決断はひとつしかない。
シンジをもう一度、あの装置にかけて夢の中に送り込む。 、、永遠に。
その決断をしたくなくて、今まで「様子を見る」として先送りし続けてきた。 しかしもう打つ手がない事は、彼女たちが最も良く解っている。

長く、重い沈黙が続いた。

「、、しかたありません。」

シンジを見つめたまま、そのひとことを告げたユイの瞳には、もう涙もなかった。

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ユイは最後にもう一度シンジを振り返り、そっとゲンドウに肩を抱かれ、明かりを消して部屋を出た。
静かに扉が閉まり、外から鍵がかけられる。
遠ざかっていく2人の足音が消えた部屋には、シンジの頭部に取り付けられた機械の駆動する音とかすかに瞬く光だけが、彼を包む胎衣のように満ちている。

その薄暗い世界の中で永遠に眠り続ける事となった彼は今、眩い光に向って駆け出していた。
その向こうには、、


「待っていたよ、シンジ君。」

両手を広げて彼を迎える暖かい微笑み。



永遠の、安らぎ。
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