・・・ The End of the Dream ・・・
*TV版26話の続きとして。

世界は闇に閉ざされていた。



しかし、その中に埋没している「彼」は、そこが闇である事を全く感じていなかった。

いや、「彼」は自分の肉体がそこにあり、自分が目を閉じているという事も意識していない。
全ての五感を絶たれ、あたかも浮遊しているのと同じ状態の彼の耳に、いやもしかしたら脳に直接、大きいのか小さいのか、遠いのか近いのかも分からない微かな音が反響していた。
ぱらぱらという乾いたような音、それにあれは、、人の声だろうか? はっきりと発音されているようなのに、ぼんやりしていて良く聞き取れない。
「彼」は無意識に耳を澄ます。 数人の人間が口々に何かを言っているようだ。 重なっている音は、、拍手?
(なんだろう・・?もう少しで・・)
解るような気がする。 そう思って音のする方(と思われる方向)に体を向けようとしたその途端!急速な上昇感覚が「彼」を突き上げた。
引き寄せられるようにぐんぐんと意識が昇って行く。それまでの曖昧な世界が、潮が引くように振り払われて行くのが分かる。
その、夢幻郷から引き剥がされる最後の瞬間に、「彼」はその音声をコトバとして捕えることができた。

「おめでとう」

声は確かにそう言っていた


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突然、「彼」、碇シンジは自分の肉体の重みを感じた。 同時に耳にも、ざわざわとした物音が流れ込んでくる。
目を開けようとしたが、その途端突き刺さった痛いほどの真っ白な光の奔流に、思わず顔を顰めた。
一旦強く目を閉じ、もう一度ゆっくりと開けてみる。 何重にもぼやけていて意味を成さなかった像が、次第に形になってきた。
白い天井に眩しいくらいの蛍光灯が並び、周りで何人かの人間が動いている気配がする。
「被験者、覚醒しました」
足元の方でそう、女性の声が聞こえた。
「脈拍、呼吸、血圧、共に正常です。」
「脳波も異常ありません」
それぞれまた別の場所からの声だ。
と、視界の左から、その光を遮ってシンジを覗き込む顔があった。
「お・・・」
その人物の顔を認めて思わず声を出そうとしたシンジは、自分の喉が思うように機能しない事に気づいて焦燥を感じた。
「まだ声は出さなくていいのよ。一週間も眠りつづけていたんですもの、すぐには無理だわ。」
それは碇シンジの母、ユイの優しい笑顔であった。 白衣を着ている。
(一・・週・・間)
言われた言葉の意味が、まだ良く飲み込めない。 頭に霞が掛かっているようだ。
「もう少し意識がはっきりしたら、色々検査があるから。焦らなくていいわ。まだしばらくゆっくりしていなさい。」
(検査?)
少しでも状況を判断しようと首を動かした時はじめて、頭と首に金属の硬い拘束感を感じた。
「ああ、その装置は今外してあげるから、、」
ユイのその言葉で、周りで様子を見ていた何人かの白衣の男女が集まってきて、シンジの頭、手、足を固定していた重厚そうな機具を手早く外しにかかる。
拘束されていた部分が外気に触れ、少し汗で湿っていた皮膚がひんやりするのを感じながら、同時にまだ体中に幾つものコードやらなにやらが貼り付けられているのにも気づいた。
(ここは・・病室だ)
自分の寝かされているパイプ製のベッドと、病人が検査の時に着ているのを見た事のある淡いブルーの検査用の服をまとった自分の下半身を見ながら、ようやくシンジはそれだけを認識した。
しかし正確には、造りは似ているが病室ではなかった。
そこは都心を離れたとある山あいに建てられた「人工進化研究所」の一角である。
「さ、検査が済むまでは私たちの仕事はひとまずないだろう。邪魔になってもいけないし、外に出ていようか。」
今度は右、ユイの立っていたのと反対側から、聞きなれた低い男の声がした。
顔を向けるとそこには予想通り、顎鬚をたくわえた父、ゲンドウの顔があった。 解りきっていたはずなのに、そこに父の存在を認めて何故かシンジの心には一瞬の不安と嫌悪感が去来した。 しかしそれはあまりに一瞬の事だったので、シンジ本人もそれと気づかぬほどではあったが。
「ええ。そうね。 じゃあシンジ、また後でね。」
ユイはゲンドウに、続いてシンジに微笑みかけると、背を向けて部屋を出ていった。 その後にゲンドウも続く。
替わって、顔を知らない白衣の研究員が傍に来て「ちょっと我慢しててね」というような事を言いながら、シンジの瞼を指で開いて覗き込んだり、周囲の装置のディスプレイを見てカルテのようなものに何かを書き込み始めた。
(まだよく解らないけど、おとなしくしてればよさそうだ)


「じゃあ、18:00に第七会議室でね」
シンジのいた部屋を出たユイは、ゲンドウにそう声をかけて長い廊下を右に向かった。 さっきの部屋とは違って、明るすぎるほどの照明ではないため、病院や研究施設独特の、どことなく薄暗い雰囲気が建物全体を占めているが、ユイにとっては自分の家に次いで「居馴れた」場所だった。 踵の低いパンプスで颯颯と歩くが、リノリウムの床はほとんど足音をさせない。
左右に並ぶ無味乾燥なクリーム色のドアをいくつか通り過ぎ、突き当たりの、自分の名札のかかったドアを開けて中に入る。 入口脇の電気のスイッチを点けると、陰りはじめた弱い日光を追い払うように蛍光燈が室内を照らし出した。
十畳ほどの、廊下と同じモスグリーンのリノリウムの部屋は正面に大きな窓があり、左右の壁は慎重より高い本棚で覆い尽くされている。その本棚にも、その前や横の床、窓を背にした大きな机の上にも、色・形共に種々雑多な、一見して専門書と解るハードカバーの本や図鑑、レポート用紙やメモ書きなどが所狭しと積み上げられている。 いかにも忙しいやり手の研究員といった感じの部屋だ。
部屋中央の簡素な応接セットを回り込んでデスクに近づいたユイは、その混沌とした机の上から躊躇なく一冊のファイルを抜き取った。 彼女にしか分からない法則があるらしい。 それを小脇に抱えて、ふと、机の端で書類に埋もれずに済んでいるアクリルの写真立てに目を止める。 緑に囲まれた研究所の正門の前で白衣を着たユイとゲンドウが並び、その前には二人に両肩に手を置かれた12才のシンジ。 少しうつむいて、上目遣いではにかんだような微笑みを作っている。 小さくて、かわいくて、そしてガラスのように繊細な神経の、たった一人の愛息子。 その写真撮ってから半年ほど後、彼のそのか弱い神経は脆くも壊れてしまったのだった。
登校拒否――そして自閉症。 部屋から出ず、親にも口をきくことの出来なくなってしまったシンジを前に、研究生活にかまけて彼の日常の些細な変化を感じ取ってやれなかったユイとゲンドウは、痛烈な後悔と自己嫌悪に陥った。
(人間のための研究をしていながら、人間を苦境に陥れてしまった、、)
それはその時のゲンドウの言葉だった。
「人間のための研究」―――

人工進化研究所とは、その名前の通り、進化の袋小路に行き詰まったと言われて久しい人類という種について、科学的アプローチからその進化を推進しようという理念の元につくられた機関である。 遺伝子学、生理学等をはじめとした様々な分野の研究室があり、ユイ達が所属するのは心理学と精神医学に関する部門、彼女とゲンドウはその主任研究員なのだ。 この部門内でも各種細かい研究室に別れているが、その中で彼女たちが取り組んでいる研究は、人の心を分析し、社会的マイナス要因を取り除いて「健全な精神」を人工的に作り出す事を主幹としている。
これら、この研究所で行われている研究を総括して、こう呼ばれているーーー
「人類補完計画」と。
ユイが最前取り出した濃灰色のファイルの表紙にも、大きな明朝体でその文字が記されていた。
(大仰な名前だこと)
ユイはいつもそう思う。
「補完」だなんて、同じ人間の立場なのにずいぶんと偉そうではないか。
事実、私たちは大きな目標ばかりに気を奪われて、目前の自分の息子の心の痛みに気づく事すらできなかった。 しかし、なんという皮肉な事だろうか。 いや、浅ましいとすら言えるかもしれない。 彼らは今、その息子を被験者として彼の精神を治療する事を研究に役立てようとしているのだ。
一石二鳥、と思う者も居るかもしれないが、彼女はそう図々しい(と思える)考え方をする事はできない。 机の上の写真を見るたびに襲ってくる、取り返しのつかない後悔の念は、どんなに研究に没頭しようとも拭い去る事はできなかった。
しかし、彼女には研究しかないのもまた事実だった。
(今は、私たちの研究がシンジの為になる、そのことだけを考えよう)
そう何度も自分に言い聞かせて、この1年半やってきたのだ。
口には出さないが、夫のゲンドウも同じ思いである事は分かる。

ひとしきり写真を見つめてから、ユイは入ってきた時と同様に足早で部屋を出、会議の行われる部屋に向かった。

彼らが自閉症などの心の病いの治療に選んだ手段は―――夢―――であった。
催眠術や暗示に近い。いわゆるサイコセラピーを、言葉や瞑想を介してではなく、人工的に脳波を刺激する、つまり直接脳に「夢」を送り込む事で治療を行うのである。
通常ヒトは睡眠に入ると、夢を見ないノンレム睡眠を70分、夢を見るレム睡眠を20分の周期で一晩中繰り返す。 夢を見ない、と言う人も居るがそれは覚えてないだけで、誰でも毎晩かならず夢を見ているのだ。 レム睡眠の間は夢を見るだけでなく、脳内の神経細胞を繋ぐ繊維、シナプスが発達し、脳の力を高める効果がある。 そのため、急速に成長している赤ん坊は、ヒトの一生の中で最も多く夢を見ているという。 「寝る子は育つ」というように、睡眠によって脳が発達し、より豊かな人格・能力を形成してゆくのだ。 逆に無理矢理夢を見ない睡眠だけにしてしまうと、生物は狂暴になり、やがて死に至るという。 ただの記憶の残滓でしかないと思われがちな「夢」は実は人の生命を左右する重要なものなのだ。
そしてその内容、記憶や印象、願望、恐怖などがごちゃ混ぜになって表れる荒唐無稽な「個人映画」も実に重要な意味を持っている。 心理学の開祖とされるフロイトは夢を「無意識に至る王道」と呼んだ。 その論理体系を継いで更に発展させたユングは夢を「もう一人の自分、心からのメッセージ」と喩えたという。 つまり人間が普段自分でも気づかないでいる、深層心理の奥底に眠る自分の本当の欲求やストレス、あるいは能力が夢によって意識に上ってくるという訳だ。 それによって自己改革を成し遂げた者や、インスピレーションを得て創作をした芸術家もいる。 だから「夢とうまく付き合う」事――無意識の自分の訴えを聞き、その欲求を満たす事が出来れば、性格を変える等だけでなく、精神的な病も克服する事が出来るのではないか、というのがこの実験の基本理論であった。

脳の働きとは、端的に言ってしまえば神経細胞を繋ぐシナプスを走る電気信号だ。 体内各部から送られて来る刺激に反応して、脳内の様々な感情を司る部分に電気信号が走る。 これを人工的に行う事によって、人間の感情をコントロールする実験には既に成功していた。 今度はそれを、夢に応用しているのだ。
ただ、今のところの技術では細かく夢の内容まで設定する事はできない。 「明るくなる」、「自分に自信を持つ」、「社会に適応できるように」、といった抽象的な方向づけをしてやるだけで、具体的にどんな夢を見るのかはその本人の経験、知識、欲求などによって違って来るのだ。

(シンジはどんな夢を見たのかしら)
それを知る事は、もちろん研究の一環として重要な事なのだが、そうではなくユイは純粋な母親としての興味からそう思った。 これまで、彼が何を思い、何を好み、何を望んで生きてきたのか、それを今まで自分が正しく認識していなかった事の罪滅ぼしなのかもしれない。
(こんな方法でしか知る事ができないなんて、本当に母親失格ね)
そう、何度も噛み締めた自嘲がまた去来した時、第七会議室に到着していた。

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「以上で、本日の検査の報告を終ります」
長い机が長方形に配置された会議室の、右列中ほどで立って手元の資料を読み上げていた研究員が、ホワイトボードを背にした最前の席に座るユイとゲンドウに確認するように視線を移しつつ、そう告げた。 そして席につく。
一通りの情報交換はこれで終り、他の研究員たちも総括を求めるようにユイの方を向いている。(寡黙なゲンドウがこういう時何も言わないであろう事を、彼らは良く知っているのだ)
一同を見回しつつ、良く通る声でユイが発言をした。
「被験者の経過は良好のようですね。皆さんご苦労様です。これでこの実験は半分までが成功したと言っていいでしょう。 今後は予定通り、更に一週間被験者生理面の検査をし、異常がなければ帰宅させ、日常生活での精神面への影響を観察する段階に入ります。 その担当は、、まぁ私たちでやる訳ですが」
研究者の立場から母親の立場へのスライド。 馴れていないせいなのか、公的な場でこうして改めてそれに言及する時、ユイはいつも後ろめたさにも似た気恥ずかしさを感じる。
この時も、彼女はいつも浮かべている微笑とは違ったはにかんだ笑みをつい隠すように手もとの資料に目を落とした。 その女性らしいしぐさにその場にいた十人ほどの研究者達も緊張の糸を解き、平穏な結果に終わった会議の雰囲気をそのまま収束させるように、口々に感想を漏らし始めた。
「いやぁ、しかしほっとしましたよ。万が一シンジ君が目を覚まさないなんてコトが有ったら、僕たち全員碇博士に何されるかってひやひやモノでしたよ」
若い研究員が少々不穏とも取れる軽口をきいたが、実験が成功に終わっている以上それは冗談として受け流され、一同がどっと沸いた。
ユイが横を見ると、ゲンドウすらも笑みを浮かべている。
「しかしそれで君が責任を感じて精神を病んでしまったら、その時は君の治療に実験を役立たせてもらう所だったよ。」
「うわっ、いやぁ僕はそんなに繊細じゃないもんで」
ゲンドウも負けずに皮肉で返す。 彼が冗談を言うなど、よほど機嫌がいいのだろう。 肩の荷が下りた、と言う状態だろうか。
別の女性研究員がユイに話し掛けた。
「でも人類初の実験にご自分のお子さんを被験者にするなんて、本当に勇気の要る事ですわ。まさに研究者の鑑、でしょうね。」
それを別の研究員が受けた。
「そうそう! 人類の科学の発展のために我が身を呈する。ジェンナー博士や野口英世並みの功績ですよねぇ。」
「この実験に成功すれば、ノーベル賞も夢じゃないって事ですよ、碇博士。」
彼らの賛辞は嫌みでも何でもなく、心からの事だろう。 皆、自分を信じて何年もついてきてくれた仲間達だ。
しかし自分の目的が彼らのそれとはずれている事を痛いほど自覚しているユイには、それが彼らに伝わっていない事が歯がゆい。
自然、笑顔が引きつりそうになるのを堪えながら言った。
「いえ、、私はただあの子のように悩みを抱えている方達の助けになれれば、と。そんなに大層な理想や目的を掲げてるわけじゃないのよ。」
そうはいってもねぇ――
やっぱりすごいですよ――
と口々に言い交わされる悪意のない無責任な言葉を聞きながらユイは、また襲ってきた自己嫌悪と必死に戦った。
(私はそんな崇高な者じゃない。己の私利私欲のために壊したものを取り戻すために、公的機関を利用し、研究員達を騙し、、本心を隠しているのは騙しているのと同じだわ。 、、いえ、そうやって自分をも騙しているのね。母としての責任の取り方はこうではない事を解っているくせに、、)
気づかぬうちに、笑顔が消えていた。
と、ゲンドウが立ち上がり、手元の書類をまとめながら、低いがよく通る声で一同に解散を告げた。
ガタガタと立ち上がる研究員達に先んじてさっと部屋を出るゲンドウにユイが続く。
ゲンドウはユイが暗い思索に囚われている事を察したのだ。
半歩前を歩くゲンドウの背中から「大丈夫だ。」とぶっきらぼうな言葉が発せられた。
「ええ。」
少しうつむいて、それでも努めて暗くなりすぎないようにユイが応える。
彼なりの、これが最大限の優しさと慰めである事は、ユイにはよく解っているのだ。
二人はその後無言のままで自分の研究室に戻っていった。


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清潔な、日常の侵入する余地のない白い四角い部屋。
電灯は消えているが、窓から入る外灯の明かりと、まだ身体のあちこちにつけられたままコードが繋がった機器がてんでに瞬く赤や青や黄色の小さな光のお陰で、薄ぼんやりと周囲が見える。
シンジは独り、身じろぎもせずにいた。
(知らない天井・・・)
これと同じ感覚を、どこかで味わった。
一週間、夢を見続けていたのだと説明された。 それが何のためなのか、そこまで聞く気になるほどシンジの頭はまだ鮮明になっていない。
ただ、その夢をゆっくりでいいから思い出してごらん、と優しそうな白衣の女性は言っていた。
夢を見ると言うのは脳にとって結構重労働だから、一週間眠りつづけたと言っても脳は疲れてる、またすぐ眠くなるはずよ、とも言われたが、なかなかそうはならなかった。
夢の内容を思い出す事にばかり気を取られているからだ。
なんとなく、つかみかけてはまた曖昧になる膨大な記憶。
それを追うと、同時にその時に感じていた(であろう)気持ちも蘇ってくる。
どきどきしたり、わくわくしたり、、 嬉しかったり、悲かったりした、気がする・・
思い出したい。
(こうやって、知らない天井を見ていた・・)
シンジは考える。
目の前の天井を記憶の中の天井と重ね、そのまま、ゆっくり横を見る・・
そこには、月明かりに、照らされて、赤い瞳の、少女が、いた・・・気が、する・・・

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人工進化研究所の建つ山の中腹から車で20分ほど下った山麓に、JRの駅を囲んでこじんまりとした市街地がある。 主に避暑地として知られるこの街は、夏季以外は人通りも多くなく、かといって寂れていると言うわけでもなく、心地よい程度に閑静な住宅街だ。
今はもう夏も終わりに近づき、過ごしやすい微風に、そこここに植えられた街路樹がなびいている。
商店街を抜けると比較的真新しい建売住宅が並び、その合間に5階建てのタイル貼りのマンションがある。 一世帯2LDKから3LDK、30代以降の夫婦をメインターゲットとした現代風の造りで、入り口はオートロックになっている。 その最上階の角がシンジ達三人が暮らす部屋だ。
エレベーターで昇ると、建物中央の吹き抜けに沿って左右にドアが並んでいる。 左奥に向かって歩き出すユイの一歩後について、半袖姿のシンジが歩く。 ゲンドウは二人の後ろに、シンジの着替えを入れたバッグを持って続いた。
実験に入る前に2週間の予備検査が行われ、夢の中にいたのが1週間、それからさらに検査があった為、シンジにとっては1ヶ月ぶりの帰宅である。
研究所を出てこの街に着いてからずっと、見慣れているような、見た事の無いような、、現実世界であるはずなのに、なぜか夢の中のような覚束なさがシンジに付きまとい続けている。

ユイが一番奥のドアに、ポケットから取り出した電子錠を差し込んだ。 シュンッ、と音を立てて扉が自動的に横にスライドする。 同時にあかりが点き、外の明るさになれた目にも、玄関とそれに続く廊下が見えるようになった。
「さ、シンジ。」
ユイはシンジを振り返りつつ、道を開けるように脇に退いた。
彼はおずおずと中を見回し、一歩踏み出す。
「お邪魔します・・・」
「やぁね、何を言ってるのよ。ここはあなたの家でしょう」
シンジの内面の不安を知ってか知らずか、ユイは破顔した。
「あ、、うん。た、ただいま。」
もう一歩中へ。
さっきまでの感覚が一層強くなった。
既視感と違和感。懐かしいような、馴染まないような。自分を受け入れてくれる「Home」であるはずなのに、自分が異物であるような気もしてくる。
なんでだろう・・
(そうか。)
突然、ある考えに思い至ってシンジはユイを振り返った。
「夢の中で、僕が住んでた家がここと良く似てたんだ。」
でもそれは夢の中の事であるから、現実とは違う部分がどうしてもある。 その微妙な差違がシンジにしっくりこない感覚をもたらしていたのだ。
「そう。夢には現実の記憶が形を変えて出てくる事が良くあるものね。」
シンジが目覚めてからの一週間で、ユイ達が彼の夢の中での話を聞くのはこれが始めてだった。 二人とも忙しくしていて、一日に数分しかシンジを見舞えなかったのと、シンジ自身も夢での出来事を反芻し、纏め上げていくのに一生懸命で、筋道だてて話すほどになっていなかった為である。
しかしこれからは、親子三人ですごす時間が十分にある。 シンジから話を聞く事自体が実験の一環だからだ。
やっと話してくれたわね、という意味を込めてユイはゲンドウに振り返って微笑みかけ、それからシンジの背中をそっと押した。
「さ、家に入りましょう。 夢の話は後でゆっくり聞かせて頂戴。」

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「それでね、そのミサトさんって人がもうすごいんだ。部屋は散らかし放題だし、料理なんかひとっつも出来ないでさ、朝からビールば〜っかり飲んでるんだよ!」
久しぶりの、、実験期間の一ヶ月を除いてもやはり久しぶりの家族揃っての夕食である。 シンジは先程から食事をするのも忘れて夢中で話しつづけていた。
うなずきながらユイが聞く。
「でもその人、そのネルフっていう機関ではスゴ腕の軍人さんなわけでしょう?」
「うん。ネルフにいる時と家にいる時じゃ、もう全然別人って感じなんだ。 でもだから良かったのかな? だって家でもマジメでビシ〜っとしてる人だったら、一緒に暮らせないもん。 ミサトさんがだらしないお陰で、僕、料理も覚えたしさ。」
まるでつい昨日起こった現実の出来事を話すように、意気揚々としている。
ロボットに怪獣、秘密組織には女性の軍人や科学者がいて、一緒に戦った仲間も同じ歳の少年、少女だと言う。
(実に男の子らしい内容ね。)
ユイは少し嬉しい。 言い方は悪いが、シンジにも「人並み」の部分があったことが解ったからだ。

ユイ達がプログラミングしたシンジの夢の方向性は、もちろん自閉症を克服するために「社会と向き合える事」「自分に自信を持つ事」「社会、友人との一体感を持つ事」などであった。 それがシンジの中では怪獣から地球を守る、という形に結実したわけだ。 なるほど、荒唐無稽で多少幼くはあるが、男の子としてはもっともな内容であると思える。
ユイもゲンドウも、話を聞きながら心理学的な観察を怠る事はない。
「戦うのは怖くなかったの?」
「そりゃ、最初はもうすっごく怖かったよ。でも、、父さんの方が、怖かったのかな?」
シンジは首をすくめるようなゼスチュアで、少し照れたようにゲンドウを伺った。
「む、、」
ゲンドウも何やら照れたようだ。
「あ、別に僕、父さんの事、本当に怖いとか思ってるわけじゃないよ。今はね。 あっちでの父さんは本当の父さんより、全然威張ってて、いつもサングラス掛けてて、何考えてるのかわかんない感じだったし、いきなりエヴァに乗れ!とかって命令するしさ。」
シンジは慌てて弁解めいた事を言う。
他人の夢の中の自分は、もちろん自分とは違うわけだが、それでも夢であなたが何をした、何を言ったと告げられるのは、何故か隠し事がばれた時のような奇妙な気恥ずかしさを感じるものだ。
しかしそれは同時に、相手に自分がどう見られているのかを知る重要なポイントでもある。

シンジは話題を変えて話を続けた。
「それに、エヴァの中には母さんがいる、らしいんだ。」
「中に?」
「よく、、わかんないんだけど、エヴァって正確にはロボットじゃなくって、生き物だったらしいんだ。で、その中に母さんの魂が入ってるとかって。 ほんと、難しい事はわかんないんだけどさ、でもエヴァに乗ってると、ああ、ここに母さんがいるんだ、って思える時があって、そういう時は凄く気持ちよくって怖いのとか忘れちゃうんだよ。」
胎内回帰願望の現われだ。 夢では良くある事である。
「う〜ん、やっぱりこうやって考え直してみると変だなぁ? そんなのって有り得る話なのかなって思っちゃう。 夢の中では、ああそうなんだってすんなり納得してたんだけど。でも、僕だったら母さんが死んじゃってエヴァの中にいるっていうのより、生きてていつも一緒にいてくれた方がいいのになぁ。」
いつも一緒に――その言葉に思わずユイの表情が微かに硬くなる。 いつも一緒に、、いて欲しい、でもいてくれない。 それが夢の中でユイが死んでしまっている事に現れているのか。
ゲンドウが再び食事の手を止めて口を開いた。
「夢では、よく起こって欲しくないと恐れている現実が裏返しで現れる事があるんだ。 お前が母さんに死んで欲しくない、と強く思っていたから、それが逆になってしまったんだろうな。 しかしそれによって、目覚めた時に実際は母さんが生きている現実の安堵感を感じる事ができる。 それと、夢の中の私はその場合、私そのものと言うより乗り越えるべき父性の象徴だ。 これには、父親を殺して母親と一体化したいと言うオイディプスコンプレックスの、、、」
「もう!あなたったらご飯の時にそんな難しい話はしないで下さいよ。」
「ああ、すまん。つい、、」
「あははっ」
夢の中での絶対者としての恐怖のイメージとはかけ離れた父の姿に、シンジは思わず笑いをこぼした。
ユイの微笑みと、バツの悪そうなゲンドウの笑顔がそれに応える。
「でね、最初に戦った時って言うのがさ、、、」
シンジは続きを話したくて仕方がないようだ。
(シンジのこんな笑顔は何年ぶりかしら、、)
今日は食事が進まなくても良いから、しばらくこのままでいよう。 ユイは潤みそうになる目をしばたたいて誤魔化しながら、そう思った。

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帰宅してから三日、シンジは家で過ごした。 現実の感覚を取り戻すためである。
そして今日から学校へ行く。
市立第三中学校。徒歩で10分くらいの公立学校だ。 当然同じ学区で小学校から一緒の生徒達も多数いる。 しかし、その中にシンジが「友達」と呼べる存在は一人もいない。

何か具体的なイジメにあった事があるわけではない。 小学校の時は、それでもそれなりに周りと同じように遊んだり、溶け込んでいた。 、、いや、無意識に溶け込む努力をしていたのかもしれない。
小学校の高学年になり、「みんな一緒」の集団生活から少しずつ、仲の良いもの同志の狭い社会が形成されて来た頃、なんとなく、ただなんとなくシンジはどこへも入れずにいた。
ほんの少し、人より雰囲気が暗かったのかもしれない。ほんの少し声が小さかったのか、色が白すぎたのか、病気がちだったからか、運動が苦手だったからか、背が低かったからか・・・
どれが原因とは言えない些細な積み重ねから、気づくとシンジは独りになっていった。

学校と言うのは一種独特の空間である。同じ歳だ言うだけで一つ所に集められ、同じ服を着、同じ物を食べ、教育を受ける。 集団は狭く、外とは違う独自の法則で動く。そしてそこに内在する子供ならではの残酷さ。
毎日何時間も居続ける空間で、親しく口をきける友人が一人もいないという状態は、大人が自分達の社会の中で想像するそれよりも遥かに過酷だ。 シンジの場合それだけではなく、家に帰っても両親がいる事の方が少なかった。
そのうち、積み重なった精神的重圧は身体に変調をきたすようになった。
朝、学校に行かなければならない時間になると吐き気がする。頭痛が起こる。 実際に吐いてしまった事も何度かあった。 そして学校を休むと決めた途端、そういった症状はすぅっとなくなるのだ。
シンジ自身にももちろん、それが「肉体的症状のある仮病」であることは解っていた。しかしそこで学校を休んでも、咎める者もいない。
独りきりの毎日。
そうして少しずつ、少しずつ彼の精神は風化してゆき、ある日学校から連絡を受けたユイ達が気づいた時にはもう、自分の部屋からも出られない状態になってしまっていたのだ。

シンジにとって学校はやはり恐怖の対象である。
夢の中でも学校に行っていた。 しかしそこでは友達がいて、ふざけあったり喧嘩したりしながらの平穏な毎日を過ごしていた。
その夢が、現実の彼の精神にもポジティブな影響を与えているという事はユイから聞いた。
同じようにやれば良いんだ、と自分に言い聞かせる。 あの時は出来たじゃないか。 アスカやトウジやケンスケや委員長、、 「こっち」の友達だって、誰も僕の事を嫌っているわけじゃないんだ。

学校へ向かう道を、一歩一歩交互に踏み出される自分の白いスニーカーを見つめながら歩く。

そうだ。僕は夢の中ででも、皆が僕を嫌っているんだとか、僕は必要とされてないんだとか、勝手に思い込んでだだをこねてた。 でもそんなことないって、「ここにいても良いんだ」って皆が教えてくれたんだ。 おんなじ事だよ。 ちょっと気にしすぎるのを止めて、普通にしてみれば、きっとそれでうまく行く。

校門を入り、昇降口へ。 まだ下を向いたまま靴を替えて教室へ向かう。 ざわざわと、きゃあきゃあと生徒達の声が彼の周りに渦巻く。
階段を上る。 教室は二階の一番奥だ。
近づくにつれ、心臓の鼓動が早まって行くのを止められない。 額に汗がにじみ、握ったこぶしに力が入る。
顔を上げると、入り口が見えてきた。 廊下では何人かの見知らぬ生徒達が、おしゃべりに興じている。
扉にかけた手が、小刻みに震えていた。 緊張している。
(大丈夫、大丈夫、、)
心の中で繰り返し、扉を開ける。
シンジに気づいた生徒は全体の半分くらいだったが、教室内のざわめきが一瞬、トーンダウンしたのがわかった。 ついで、肘で小突かれたり注意を促された残りの生徒達が全員こちらを見る。 シンジの顔が一気に上気する。 これだけの人数に注目されては、誰でもそうなるだろう。
シンジが自分の席に向かうにつれ、さわさわと交わされる声の波が広がっていった。
(おい。碇だよ。めっずらし〜)
(なに?あの子って病気だったの?)
(ねぇ。もう退学したんだとばっかり思ってたぁ〜)
(アタシ小学校違うからぁ、よく知らないんだけど、カレっていじめられっコなの?)
(べっつにそういうワケじゃねぇんだけどさ、なぁんかクラいんだよなぁ、アイツ)
(そうそう。とっつきにくいって言うかさ〜)
膝の震えを悟られないように気を付けながらシンジは自分の席についた。 隣の女生徒がこっちを見ている。
(大丈夫!)
意を決してシンジはその子の顔を見た。
「おはよう。」
精一杯の笑顔と明るい声で。 夢の中で友達にしていたように。
「お、、おは、よう、、」
まさか挨拶されると思っていなかったその女の子は、戸惑いを隠しきれないようだ。 目を丸くして呆気に取られている。
(大丈夫、最初だけだよ。)
今日何度目かの「大丈夫」を言い聞かせてシンジは、前に向き直った。

チャイムが鳴り、生徒達がガタガタを自分の席に着き始めると、出席簿を持った担任が教室に入って来た。
シンジの姿を認めて
「おっ、碇は今日からだったな。 頑張れよ。」
と大きな声をかける。
「はい!」
誰にも、シンジ自身にも意外な程の明るい返事に、また教室中の目が彼に向けられた。
(ほら、大丈夫だ。)
こんな好奇心も、うまくやれば好意に変えられた経験を、シンジは思い返していた。


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昼休み。
学校生活において、最も人間関係が如実に表れる時間である。 授業中は割り振られた席で静かにしているしかない生徒達が、思い思いにグループを作って楽しい会話に興じられる希少なひととき。
この時間を心待ちに午前中を過ごす者も多いことだろう。
しかしシンジにとっては・・・
今までのように一人で食べようか、それとも、、と逡巡していると、シンジとは小学校の違う、余り名前も知らない2〜3人の女生徒が
「お弁当、一緒に食べない?」と声をかけてきた。
「う、うん。」
びっくりした。
男子からは「暗い」「ヒヨワ」で片づけられてしまうシンジの線の細い容貌も、男の子に興味を持ち始めた女子中学生には「カワイイ」と映るようだ。 加えて小学校が違った彼女たちには、中学に上がってからはほとんど顔を出さなかったシンジの印象があまりない。 好奇心が先入観に勝ったようだ。

「え?碇君、お弁当そんなちょっとなの?」
最初に声をかけてきた、目のくりっとした活発そうな子が、前の机をシンジの机に向き合うように動かしながら、シンジの小さな弁当箱を見て言う。
「うん。あんまり食べれないんだ」
「だぁからそんなナマっ白いんだよ〜 だめじゃぁん、男の子なのにサ」
左から、髪を三つ編みにした子にどんっと背中を叩かれた。 目が合ったシンジは、思わず苦笑する。
右正面の椅子に座ったショートカットの少し背の高い子が、机から身を乗り出してシンジの腕を取り、素っ頓狂な声を上げる。
「うわっ、腕細〜い! アタシなんかより肌とかゼンゼンキレイじゃ〜ん。 ああ〜、なんかクヤシーなぁ」
「いや、、外に、出なかっただけだよ」
最初の子がシンジの正面に座って、手を伸ばしてきた。
「全体的に色素が薄いんだよね〜。髪の毛なんかほら、サラサラだしぃ。」
どうやらすっかり彼女たちのオモチャにされてしまったようだ。 しかし、悪い気はしない。 誰も口を利いてくれない苦痛に比べたら、彼女たちの悪意のないからかいがどれだけ暖かく感じられる事か。

他の生徒達も各々のグループからその様子に注目していた。
「なんか、変わったな、アイツ。」
「普通に喋ってるねぇ。」
「休んでる間、ビョーインとか行ってたのかな。」
「なんとかセラピーとかっていうんじゃないの?そういうのって。」
「どっちにしろ、いーんじゃない?明るくなったってんならさ。」
「え〜、でもシューキョーとかだったらヤじゃなぁい?」
「そんなのあるのかぁ?」

弁当を食べ始めても、三人の女生徒の舌戦は止まらない。 あけすけな好奇心に戸惑いも感じていたが、シンジは自分でも驚くほどすんなりと、時折冗談すら交えつつ応答が出来ている。
(ああ、、)
夢の中でもこんな風だったな。 僕がエヴァに乗ってるって最初に言った時。
自分が「ここにいてもいいんだ」って思えるようになった、最初のきっかけ。 それをもう一度、つかめるかもしれない。

「ねぇ、休んでる間って何してたの?」
「いや、、別に、、。家に、いたよ。」
実験の事は言わないように言われている。なにぶんまだ極秘の段階だ。
「ずっと独りでぇ?そんなの、寂しいじゃん。」
突然、核心に触れられて、シンジの胸中に瞬時に過去の、どうしようもない虚無感に捕らわれていた時期のしめつけられうような感覚が蘇った。
なりたくて独りになったわけじゃない。 もちろんこの女生徒には何の関係もない事だが、僕を独りぼっちに切り離したのは君たちじゃないか、そんな憤りも沸き上がってくる。 責任転嫁であるのは自分でも分かっているが、、
しかし彼女に全くそんな悪意がない事は、その次の一言で証明された。
「こうやってみんなでいる方が楽しいでしょ?」
まっすぐシンジを見つめる瞳。 くったくのない笑顔。
大袈裟かもしれないが、その言葉でシンジは救われた。
「そうだね。」
その時の彼の笑顔は、彼自身でもいままで最高だと思えるものだった。
現実世界の中では。


「虚構の始まり」へ続く
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